夢人の正体
おはこんばんにあ
キーボードに足を乗っけたまま眠ってしまいました。そうです、ろぼです。
今回は、なぜ寝ないと死ぬのか、とか、夢の正体とはなんなのか、とか、虫の知らせって何なの?とか、神様は存在するの?とか、幽霊はいるの?とか、そういった類のお話です。
てか、これって膨大過ぎん?と思われたかた、その通りですね…
ちょっと、かっこよく始めてみましたがいざまとめようとすると、宇宙がどんどん広がっていると言われている中でまとまるのか?と思いました…
そうですね、僕は実際に地球の外に出て地球を見たことがありません。
だから、本当に地球が丸いのか判断する能力はありません。だけど、複合的に考えても納得できるくらいの衛星写真や学術書からの状況証拠が、この星が丸いと教えてくれます。ただですね、それが真実であろうとなかろうと、この地球上の中でもまだ、この星が丸いと考えていない存在は必ずいます。
だから、これから書くことは、これまで私の肉体が受け継がれながら授かったその間
と学びながら形成されている理性が言葉を選び判断もしくは抽出されたものであります。
そのため、時には間違ったこともいうでしょうし、まったくもって見当違いなことも書くかもしれません。
それでは、脳の世界と其の狭間の世界の境を共鳴していこうではないか。
なんか宗教染みた入りだな…
私は習慣として、寝起きが最悪な性格の持ち主である。
大方あっていると思うので、なぜそのようになってしまったのか理由をあげていく。
まず、母親からの遺伝で寝起き時、低血圧である。
次、たぶんこれが本音だろうが、私は物心をついたころから、夢と現実の狭間、
つまり、起きてから思いせる夢で見た内容を再記憶するという思考をその理性にたどり着く限り、試みている。いつしかその試みは習慣付き、寝起きで何かの邪魔が入らない限り、それを繰り返しながら徐々に現実世界を受け入れるという生活に持っていこうとしている。
恐らくその念が強いせいで、その思考回路を邪魔したものに対して、結構な怒りを感じる性格になっている。
これでは到底結婚生活などうまくいかないわけで、現在はバツイチである。
話変えんな…
ちょっと夢の記憶と散歩にいってくる
まっさきにでてくるのは、高校時代の親友けんちゃん
が現在の親友でもあるゆうちゃんにいつのまにか入れ替わっていたこと
親友だったけんちゃんに対しては、現在までの経歴を踏まえた距離感を保っていたことが思い出される。
やっぱ、まじで散歩に行ってくる
キーボート打てないけどマイクラのJava版やりたいと思っている若者へ、朗報です
Hi, My name is Lobo.
はい、こんにちわ、キーボードというのは時に不便ですね。
タイピングし始めてから、半角だったんかーい!
となることもしばしばな、どうもろぼです。
かな入力時、打っている文字列を半角英数にするのは F10キーです。
F9が全角英数
F8が半角カタカナ
F7が全角カタカナ
はーい、やっぱりキーボードは便利ですね。
って、今回はその話ではなく、マイクラJava版をコントローラーで支配してしまう商品のご紹介です。
(ちなみにアフェリエイトは有効になっておりませんのであしからず)
現在、私もこの画像とまったく同じ商品のコントローラーを使用しております。
しかし、コレ単体では動きませんので、
joytokey(基本無料、課金任意)というソフトを入れましょう。
JoyToKey 公式ホームページ - 最新版をダウンロード
これで何ができるかといいますとね、こいつには背面ボタンがついており、全面で指定してあるキーを含めてマクロキー登録というものができます。
これを口で説明するのは難しいのでね、実際に私が使用している設定を公開しつつ、
キーボードに設定できる便利なマクロもご紹介!なんてしてしまうと、記事がごちゃごちゃになってしまうのでね、このコントローラーでできることを簡単にご説明しようと思います。(実際の設定方法等は、後日それぞれのブログとさせてください)
PCゲームをしたことがある方ならご存じかと思いますが、
PCゲームの基本は
W(↑)、A(←)、S(↓)、D(→)で移動しますよね。
しかし、ファミコン時代からコントローラーでゲームをしていた私には、これが非常に不愉快であり、タイピングの手の配置的にもズレを生じさせるものであります。
しかしながらカメラ視点の方向をかえるマウスの感度に勝るものはいないので、建築するときは左手でコントローラーをもって、右手はマウスでやることが操作的にベストなホジショニングです。
サバイバルモードは、コントローラーだけでいけます。PvPも建築よりは的が大きいのでスティックの強弱で斜め移動の感度が良いコントローラーにもメリットはあるはずです。(マイクラで対人は基本やらない人なのであしからず)
MODを入れたときや沢山のキーを使用する時は、さすがにキーボードを使いますが、チャットやコマンドを打つときなんかは膝の上にコントローラーを置いたり、どっか定位置を用意すればマルチに対応できます。
で、本題です。
このコントローラーで実際のゲーム時に使用できるキーとして以下のようにあります。
Joyスティック×2(移動キー、カメラ視点操作キー)
十字キー(任意の4つのキー)
ABXYボタン(任意の4つのキー)
L1、L2、R1、R2(任意の4つのキー)
スティック押し込み時L3、R3(任意の2つのキー)
ーボタン、+ボタン(任意の2つのキー)
背面キーM1、M2、M3、M4(十字ボタン、ABXY、L1、L2、R1、R2の組み合わせ)
(個人的に背面キーには、Spaceキーを登録してあるBボタン1回分を登録してます。
コントローラーのマクロ、Joytokeyのマクロ、Ghubのマクロとそれぞれ利点が異なるため、コントローラーのマクロには汎用性の高い単純なキーを設定することをおススメします)
※マクロキー(背面ボタン4つ)に登録できるキーは、十字ボタン、ABXY、L1、L2、R1、R2の組み合わせ
他にも連射機能がありますが基本ボタンを押していないと動作し続けてくれないので、基本使えません。
第五人格等沢山のチャットキーやインベントリキー等でキーを沢山使用するゲームにはテンキーを用意する必要もあるかと思いますが、生活や建築を目的としたマイクラに関しては不自由がございません。
例えばですよ、F3+iとキー操作をすると、合わせてるカーソル上にあるブロック情報をコピーしてくれるわけですが、JoytokeyでそのF3+iを一つのボタンに設定することも可能なのです。ちなみに私はR2キーに設定します。
そしたらですね、Fillコマンドで、コピーしたブロックと同じブロックを次にカーソルをあわせた場所まで埋めるということをたった2つの動作で行うことも可能なわけです、Airでマクロをつくれば消すこともたった2つのキーでできるのです。
失礼、しかしFILLコマンドに関しては注意点があります。マクロ機能をもったGhub等々のソフトとそれに対応したキーボードまたはマウスが必要です。
Joytokeyはですね、残念なことに4つのキー操作しかマクロ登録できません。
しかし、コントローラーに付随しているマクロ機能は、コントローラーで操作した記憶通りの動きを登録できるので、私がまだ解明していないだけで、同じようなことも可能かもしれませんね… まとめるか、これは結構奥が深い話になってきた。別ブログ必須だな…
なにはともあれ今回は、このジャイロコントローラーのご紹介でして、Java版でもコントローラーで十分遊べるよ!ということが言いたかったのです。そして汎用性高いですからね。設定が豊富すぎて初めはとまどうと思うので、次のブログ辺りで私が設定しているJoytokeyの設定ファイルでも配布しますかね。需要があれば。。。
個人的には、このジャイロコントローラーとゲーム用キーボード&マウスがあれば、マイクラを最上級まで楽しめると思います。奥が深いんでね、まだまだ未発掘な部分は掘り下げたいと思いますが。
ただですね、Switch対応と書いておりますが、純正品ほど品質が高いというわけではないので、その点は注意してください。
ちょっと操作感に安っぽさはありますが、約1年使用し続けて問題なく使用できていますので、さすがは日本製?ということであります…
若い力が沢山必要な時代で如何に我が国は
どうもこんにちわ、ろぼです。
早速ですが、次の画像を見て、何をしているのか答えなさい。
はい、そうです。マインクラフトJava版(1.16)のmcaファイルの比較です。
私が何がしたいのかといいますと、マイクラのworldデータを何らかの方法で全部読み込んで、その時点にworldに存在する(読み込んである)ダイヤや鉱石の量など全てのブロックとエンティティを読み込み、別途共通通貨というものを用意して、外部で統計した結果から価格を設定する。というシステムを構築したいのです。
しかし、これらを調べるうちに沢山の問題点があることがわかってきました。
1.既に存在しているマイクラのMODやコマンド、プログラムを用いれば読み込めるようですが、world全体の総量を読み込む訳ですから処理自体がクソほど重くなるようです。ユーザーの満足度を考慮して、マイクラサーバー自体で処理する方法は断念し、そして、クライアント側から処理することは、セキュリティ面で論外である。仮にクライアントから処理できたとしても、鯖処理と同様なサーバー負荷をかけると判断し考察する以前に除外。
2.ってこれ2項目で終わるな・・・
そこで、おもいついたのが、マイクラ鯖から毎日worldのバックアップをとり、そのデータを他PCで解析し、結果の値だけをマイクラ鯖にアップデートという方法が最適かと思ったわけであります。
がしかし、画像で上げたファイルを見て愕然としました。
この比較は、スーパーフラットのworldデータで最初に読み込まれた(生成された)mcaファイルのバイナリデータと、同じチャンクにただただ1ブロックのダイヤモンド鉱石を設置したworldのバイナリーデータ比較になっております。
差分、、、どんだけーーー
私はゲーム開発者でもなんでもなく、ただただSEを3年ほどやっていたほぼほぼ素人の一般ピーポーであるため、これを1人で解析するには多大な時間と労力が必要であると瞬時に察しました。
以前、おそらく2008年頃ですね、私はJSPを用いた自宅WEBサーバーを公開していた時期があり、当時では最先端だったCMCという機能を1人でこつこつ構築しておりました。ユーザー毎にWEBページを設け、デフォでフォーマットこそございますが、各自好きなスタイルのWEBページに変更できるというようなものです。WordPressの簡易版みたいなもので、コメント付きのブログ機能が主な用途でした。
しかし、そんな時Facebookという大御所が世間では一気に広まり始めたのです。
もちろん自分はmixiもFacebookもユーチューバーという言葉がはやる前からYOUTUBEは使ってたよ的なノリで利用してました。
しかしながら、市場を制圧されることの絶望感というのは、もはや一溜りもありません。
mixiは紹介制の個人まりしたコミュニティであった側面があり、Facebookというのは友達の友達は友達みたいな側面があったかと思いますが、僕が盛り上げようとしていた自鯖にもデザイン面や使いやすさという点において(セキュリティ面は皆無)可能性はあるものと思っていました。
しかし、FBはものの一年でアメリカ本土から、日本全国にそして世界全土(中国ロシアはしらんけど)に広がりました。そうです、ここで私はこの開発を断念し、その頃にはもう人間一人でできる作業には限りがあると感じるようになりました。
それから私はしばらくオーストラリアへ放浪することになったのですが、オーストラリアで生活していると主に都市部ですが中国人の多さにびびります。
当時の記憶によると、OZの人口の7倍の中国移住者がいるとのことでした。
って、完全にのっとられとるじゃないかーというようなノリが当時からあったわけですが、人間の数っていうのは非常に大事な力なんですよね。それが国力になるわけですから、日本が低迷しているのも頷けます。
じゃあ、どうしろっていうんだ!
はい、僕には日本の最先端技術も何を隠しているのかも知りません。
それに、日本のトップが世界をどの程度牛耳っているのかもわかりません。
だけど、これだけは言えます。
人口第一位のあの中国の方々は、日本の漫画やアニメが大好きです!
はい、これですね。答えはもう見えています。
日本が世界の中でもっとも優れているもの、それがそれらによって形成されたモラルだと思うのです。
僕が20代、ですので約10年前くらいの情報になってしまいますが、日本人は海外に行くと割とバカなことをやりますし、ヨーロッパの国の人たちと比べても品がない(我も含む)と思うことが多々ありました。しかしですね、日本人はどこかでそれをあえてやっているという確信犯的人間が多いと思うのです。自覚してるかどうかはおいておいてね。
こういった類の話は、その地域でどの程度群れているか、そしてその群れは割合的にどのくらいか、といった環境要素も多く含まれますので、一概に全ての日本人の若者がおバカなことをするとは限りませんが、ニュアンス的な感覚で書かせていただきました。
あと、これは事実だと思うのですが、日本人は他の国の人と比べると我慢強く打たれ強いです。潜在的に武士や侍のDNAを持ち合せていることでしょう。ですから、その眠っている力を紳士的に呼び起こすのです。
紳士的にですよ。
そうでないと、力を持ったものは他者に対し、己の強さを行使してしまうものですから。
高齢化はある意味、日本の平和を伸ばす要因の一つかもしれません。
冒頭以外は、わたしが海外にいって感じた差分から抽出した日本の客観的主観です。
過ぎたことはもうどうでもいいのでね、私は、今マイクラのworldデータを如何に解析できるかということを、本業とは別にコツコツと進めていきたいのである。
詳しい人からのヒント的なコメントお待ちしております。
答えでもいいので…
それでは
プエルトリコへの恋心
我が失望した己の無力さに
私の海外滞在履歴を思い返してみる。
知り合いの中では海外歴は浅いが、一般的には少し多いくらいと思っている。
21か22歳:LAにダンスの勉強に2か月、DCに20日ちょっと、NYに3日
24歳:LAに婚前旅行2週間
25歳:LAで行われたBBOYの大会に1週間ちょい(帰りの便に乗り遅れ、1日放浪)
27歳:オーストラリアにワーホリ
1年目 ケアンズに2か月、クックタウンとレークランドに半年、東海岸1800kmを中古車で移動後シドニーの橋でガス欠が始まり、シドニー市内で違法駐車後、シドニーに半年(セカンドビザ更新)後、永住を決めたと親に報告後、間接的な帰国命令
28歳:オーストラリアが恋しくて、またもワーホリ
2年目 レークランドに半年、2週間ワニと蛇の生息地に住んでいたパプアニューギニア人のパパの家に居候後、ビザの残りが終わりに近づき帰国
29歳:台湾に観光ビザで3か月滞在時に出家、帰国後仏師の弟子入りをするも音楽性の違いにより1週間で夜逃げ
30歳:オーストラリアが恋しくなり10日間ほどパパの家に遊びに行く
32歳:LAに2週間の旅行
34歳:タイに10日間ほど一人旅
36歳:LAとサンフランシスコに2週間ほど旅行(後にGoogle本社いっとけばよかたと後悔)
こう見ると、中東と中華圏、ヨーロッパにロシア、アフリカ大陸にいっていない。
写真は32歳の頃にいったサンタバーバラのビーチ沿いで撮った写真。
ダンスの練習もろくにしていなかったが、ハーリーがLAに来ていたこともあって、ノリでアメリカでも一番有名なダンスバトルにFBIの人とチームを組んで参加。いつものようにサークルで遊びすぎて体力がつきボロボロのソロをかまし、予選敗退…(なにもいえない)
個人的に28から29歳あたりで完全燃焼し、燃え尽き症候群に10年弱悩まされたわけだが、今でも後悔の念があるとすればこれだ。
なぜ、私は、この時パーマをかけてくれたプエルトリコ出身の女性にアプローチして、受け入れてもらえなかったのか。
理由はいくつかあろう、おっさん、背が小さい。
うっせぇ、うっせぇ、うっせぇーわ
…
みなさん、人生にモテ期は三度だけあります。
その期を絶対見逃さないでね…
というわけでそれとも全く関係はないのだけれど、外国の方とお付き合いできたら面白いだろうなって後悔の念は今でも少しばかり持ち合わせています。
では、この辺で
また、気分が乗り始めたらブログします。
P.S: 第2のパパに、俺パプアニューギニアに行ってみたいというと、こう返事が返ってきた。
パプアニューギニアには行くな、彼らは人を殺すことを何とも思っていない。と
現地出生の方が言った言葉だから、まじなのだろうけど、30代後半を迎える私には、もうそのような国に行く勇気はない。まだ早いか、どうかわからないが
ウエストコーストとイーストコースト
今は、中国とかベトナムとかミャンマーとかタイとか色んな国で溢れている。
ほんのり覚えている。
小学校高学年か中学校低学年の頃の記憶。
確か、Tシャツの首元のタグにはMade in USAの文字が殆どであった。
高校を2年で自主退学し、18歳から19歳になる年に上京して、ブレイクダンスを始めて3年ほど過ぎた頃、時は2003年となる。
早稲田のキャンパスでブレイクダンスの練習ができるからか、
深夜の時給が高いカラオケ屋があったからか忘れたが、僕は早稲田大学から徒歩数分ほどの場所にあるカラオケ屋で深夜のバイトをしながらブレイクダンスの練習に励んでいた。
住んでいる場所は中野区中野の環七沿い寄りで、バイト先へは、16インチくらいの洒落乙な自転車で早稲田通りを約30分程漕いだ。
当時ストリートダンスの練習が盛んだった場所は、中野ゼロの中央にあるガラス張りの通路と安田(旧:安田火災ビル、現:損保ジャパンビル)とあった。
中野に引っ越した理由は、当時唯一日本に一つだけあったブレイクダンス専門店が中野にあったこと。そしてそこの店員さんから中野ゼロの場所を教えてもらい、初めの一年半ほどはその中野ゼロで練習していた。
それから、いろいろとあり、日本全国からストリートダンサーが集まるメッカ的な場所の安田で練習することになる。
安田のいいところは、なんといっても床が大理石で大汗をかかない限り地面に手をついて強く重心をのっけたとしても滑ることがないのに対し、局所的に手をついて片手逆立ちの状態で回る技の様なときには摩擦が少ないという当時のBBOYにとって最強の環境があった。それが、実際のクラブや大会などで悪い影響を受けることにもなるのだが...
そんな話はおいておいて、その頃の私が、毎日のように大理石の地面に頭をぶつけてきたせいか、何かを思い返そうとしても断片的にしか思い出せないため、まずは断片化された記憶を成り行きに任せて書いていこうと思う。
BBOY歴(足立区の時期も含めて)1年半前後の自分が、初めて安田に行ったときは、それはもう衝撃的だった。
10人くらいで半径3mほどのサークルを作り、順々に自分の技を磨いている。
そのサークルは、ビルの北面と南面とで一つづつ、計二つあった。
甲州街道にコンビニがあり、そこでエナジードリンクや飲料に飯を買い安田に入るのは北面からになるのだが、そこでメッシュキャップを被った見た目かわいい感じのB-girlがトップロックを踏み2000という技をやっていた。
自分は思った。現時点で負けている。差別的意味で書きたいわけではないが、女になんか負けるかと素直にそう思ったのを今でも覚えている。
それを見なかったことのようにした私は、その場所を素通りし南面のサークルがある場所を練習場所として選んだ。
この流れは長くなりそうなので一部割愛する、後日まとめようと思う。
練習を重ねるたび、そこで集まるBBOY達との仲は深まっていった。
一緒に2on2バトルにでたり、もう少し時が経つとCrew(チームやギルドみたいなもの)を組んでバトルに出たりShowをしたりするようになる。
そんな頃だったか、仲間の都合もあったりしてマイナーだけど練習できる場所で練習することも増えるようになる。
主に駅がおおかっただろうか
そんななか、たまさんというBBOYのつながりでちゃいという男と出会うことになる。
そして彼は、次第に私と一緒に練習する中で私のことを強く慕ってくれるようになる。そんなある日、彼が、お前をW氏に紹介したいと言って来るのだった。
当時、彼は早稲田大学に通っており、早稲田のBBOYサークルに誘ってくれるようになった。
今でもどちらが先か思い出せない。それがきっかけで早稲田駅近くのカラオケ屋でバイトするようになったのか、そうではなく、たまたまだったのか。
いずれにせよ、そのサークルにお邪魔するようになってから、手足が不自由なアメリカのBBOYと知り合うことになる。
彼の名はハーリーといった。
サークルで練習する度に、一生懸命に踊る彼の姿に心打たれ、次第に僕たちはメールを交換する仲になった。
しかし、そんな日々もあっという間で、出会ってから数か月という時が立ち。彼の交換留学の終わりの日が迫っていく。
彼の帰国間際のある日、僕たちはプライベートで会うことになった。
片言英語の私は、片手に和英辞書とよく使う簡単な英会話的な本を持ち彼と西新宿だったか早稲田近辺だったか忘れたが、とあるマクドナルドで一緒にマックした。
やはり、断片的にしか思い出せない。
ハーリーがアメリカに帰った後、たまのメールでやりとりしながらも時は過ぎていった。
次第に練習仲間も変わりながら、大御所の先輩S氏と一緒にCrewを組んでもらえるようになって直ぐのこと、S氏がアメリカの学校に行くという話から、そのCrewはもはや幻と化した。
それから同じCrewでもあった、中野ゼロの頃から仲がよかったT氏と一緒に練習に明け暮れながら、来年にでもアメリカに行こうか?という話が徐々に進んでいく。
そして次の年の夏、約2か月ほど、S氏が住んでるハリウッドの一角にあるアパートにT氏と一緒に住み着くことになる。
全てがでかく見えたアメリカ。
毎日晴天で気候は乾燥しており、朝は肌寒く、昼はすがすがしく(ぶっちゃけ暑かったような)、夜はまた寒い。そんな中楽しい毎日があった。
朝起きたらハリウッド近辺を観光したり、サンタモニカやベニスビーチにいったり、S氏とは別に一緒のCrewであったK氏が住んでるUCLA近くの寮に遊びに行ったり、日本ではVHS越しに見ていたはずの本場BBOYが集うロングビーチ方面のアナハイム地区にある練習場所で練習したり、と毎日が刺激的だった。
思い出せるのは、チャイニーズかコリアン料理が美味しくて(当時のアメリカの一般食は基本不味かった)、逆にハンバーガー屋のジャンクフードでも慣れてくると美味しく感じてしまう日本のマック的なノリもあった。
約2か月も先輩の家にお世話になっているといろいろと問題も発生してくるわけで、僕らは、2か月でS氏が借りていたアパートをでることになった。
先天的な問題か、一緒にLAX行きの飛行機に乗ったT氏とも何か話し合ったわけでもなく、それから別行動をとるようになる。
そして、僕が選んだ道はイーストコーストWashington DCに住んでいるハーリーに会いに行くことだった。
私は、最初にDCまでバスで内陸を横断しようと考えたが周りの友人から危ないと強く止められ、結局飛行機でボルティモア空港まで行きそこから列車でDCのユニオンステーションまで行くことにした。
西は西ででかくておおらかな自由度がある感覚を覚えたが、東は東でまた違う味があったように思える。
まとまりがないが、今日はここらへんで締めようと思う。
今日は久しぶりにBreak Beatsを聞きながら、少し何かを思い返せたか、
ダンスは最高だな。
また生まれ変わったとしたら、また踊りたいと思う。
ゲームがただの遊び道具ではなくなる日
みなさん、こんにちわ
ロボと申すものでございます。
現在の私は、マインクラフト通称マイクラというものにハマっています。
マインクラフトPEの発売当初、スマフォ版で買った経緯があるものの、当時の私は木をきるところで「なんだつまんねぇーゲームだな」と思い放置したものであります。
その当時が2011年暮れであったと思いますが、それからの私はiOS版のゲームを主流にやっておりました。
モンストやドラクエ、FFシリーズ、時がたち白猫プロジェクト、白テニ、星ドラ、コトダマン、昨今ではマジカミ(PC版も含む)、原神、第五人格、BLEACH(中華版)、ワンパンマン、その流れで、YOUTUBEの配信をよく観るようになり、マイクラJava版を購入した経緯があります。
現在でも、第五人格、マイクラに関しては大半のユーザーが利用していることと思いますし、どちらも一般的に有名で楽しいゲームであると認識しております。
これらのアプリまたはゲームは、一般的に二次元という世界設定で認識されていると
思いますが、例としてドローンを操るアプリというのは現実的であり、現在も現実世界で如何に利用できるかという点において注目されている事柄と思います。
戦争的な要素を多く含むゲームとして、荒野行動、APEX、フォートナイト等あると思いますが、自分は銃で人を撃つという行為がゲーム内であれ体感できることに恐怖を覚える質なので、利用しておりませんのが、あしからず。
今回は戦争に利用できるゲームという趣旨のことがらを排除し、経済的戦略に利用できる(そういったら経済に関わる全ての事柄が含まれてしまいますが)ゲームであり、かつプログラムの勉強を兼ねるゲームをご紹介したいと思います。
そうです、それがマインクラフトなのです。
シェアが大きいのは統合版ですが、拡張性が高いのはJava版ということであります。
統合版は、Switch、PS4、iOS、Android、Windows 10、Xbox、その他(諸説あり)の端末で利用可能で、
Java版は、Windows、Linux、MacOSと所謂PCで動作します。
もとシステムエンジニアの私としてはJava版を押したいわけで、今後Java版についてのブログになると思いますが、統合版にもメリットがございますので、自分にあったヴァージョンを利用することをおススメします。
統合版のメリットとして
・Java版ほど高スペックなPCを要求されない
・コマンドで出せるブロックがJava版より豊富である
・利用者が多い
Java版のメリットとして
・多様なMOD(シェーダーや拡張機能)を利用できる
・オリジナルのMOD(プラグイン)を自ら作成できプログラムの勉強ができる
・アプデをいち早く体験できる
と、こんな感じだと思います。
ユーザー数の観点では、統合版サーバーを立てることに利があることもあると思いますが、勉強面や想像力の向上の観点ではJava版の優位はゆるぎません。
とは、いったものの現在(2021/03/06)の私目には、開発環境など整っておりませんので、SpigotやMySQLサーバーの連携といったような類のブログを書くことはあと1年ほどはないでしょう。
しかしながら、現状一番市場を持っているマインクラフトには目が離せないものがあります。
Java勉強しとけばよかったな、Pythonのプロジェクト薦められたとき入っておけばよかったな等々、後悔の念が絶えませんが、杉田玄白どうしようもない、今目の前で起こっていることだけに注力せよということで、今後ゲームが如何に現実世界とリンクしていくのかの動向力をつけようジャマイカということで、今回は終わりにさせていただきます。
久しぶりのブログ
こんにちわ
ロボと申すものです。
ブログを書くことはもう何年振りか
作業用メインPCの合間にノートで作業しようとしたのですが、キーボードのキー配列の違いに戸惑いながら、まずはタイピングしながらノートに慣れようと思うところ
そして、過去の自分を掘り起こす作業とともに当ブログをしていこうと思う所存でございます。
ここから、簡単に自己紹介がてら生い立ちを追っていきます。
プロフィール写真は、体力的にピークだったと思う28歳当時の思い出です。
現在は、筋力も落ち平凡に暮らしております。
生まれは、どちらかといえば田舎で、18までどちらかといえば田舎で育ちました。
そして、19になる年に上京し、ブレイクダンスというものにのめり込むことになります。
高校を2年で中退した自分にとって、当時の自分には焦りがありました。
理由は、周りの友達が卒業証書取得、専門や大学への進学と成功へと道を進めているという事柄にありました。
それもあってか、私はそれから10年ほどダンスに夢中になることになります。
今思い返しても、HIPHOPやBBOYといった文化にはとてもお世話になり、38歳になった現在でもまたやりたくなる衝動にかられるものです。
ブレイクダンスについてのブログはまた今度書くとして、そしたら私は何を書けばいいの?となるわけで、・・・
どうしましょう。
ある程度の衝動が起こるまでは歴史に残るであろう経緯を書いていこうと思います。
ブレイクダンスを始めた19の年ですね、2001年9月11日に同時多発テロが発生しました。かすかですが今でも思い出せるのは、ニュースがまるでハリウッド映画のようだった。ということです。
YOUTUBEの動画の題材にもとりあげられることがありますが、あれは陰謀だったのではないか?等々あると思いますが、ここではスルーすることにします。
それから、バイトしながらブレイクダンスに明け暮れる日々が3年ほど続きます。
アメリカに本場のBBOYの勉強をしにいったり、渋谷、原宿、六本木辺りのクラブで開催されるBBOYバトルにでたり、月9ドラマにダンスエキストラとして出演したりと多少なり活躍していた時期もありました。
今では痕跡すらないと思いますが、ブログを始めたのもそのころで、約6年ほど毎日書いていたと思います。自己主張の強い性格ですから、内容なんて覚えてもおりませんし、大したことも書いてはなかったでしょうが、できるならもう一度読んでみたいものですね。
そして、いつか正確には思い出せませんが、一度結婚することになります。
恐らく24歳から26歳のころでしょうか。
相手がダンスの練習で知り合った女性で、お互いダンスをしている時はそれなりにうまくいっていたのですが、結婚してお互いがそれぞれの職に向かい始めたころから、すこしづつズレはじめ、私は離婚という道へ歩みを進めてしまいます。
2008年10月頃、サブプライムローン問題の影響が日本でも出てき始めたころだったと思います。
結婚をするにあたって、私が選んだ職はシステムエンジニアという道でした。
しかし、リーマンショックの影響もあり、当時の新聞の見出しにはこのようなことが書かれました。
「システムエンジニアの需要半減」
その見出しを見た私は、システムエンジニアを続けることを諦め、オーストラリアへワーホリに行くことになります。
その前に、高校中退だった私がなぜシステムエンジニアになれたのか?という点について少し話させてください。
2006年当時は、システムエンジニアの需要が非常に高かったため、数多くのベンチャー企業がシステムエンジニア育成に力を入れていました。
当時の私はバイク便を事業主という形で請負ながら、ブレイクダンスし、新婚生活的なのりで生活をしていました。
そんな中、バイク便では収入の天井も見えていましたから、稼ぎ頭になるべく、某システムエンジニア養成所に通うことにしたのです。
それは、バイク便をしながら約3か月続きましたが、そこでC言語や簡単なSQLの勉強を経て、経歴を1年という期間に詐称し、いきなり大手企業のプロジェクトに請負で参入されるわけです。
しかしながら、当初入ったプロジェクトの使用言語がかなり特殊な統計型言語であったため、ほとんどのシステムエンジニア(エリートも含む)と同じスタートラインでその言語を習得し始めることになり、はじめのうちは、その言語で何を実現できるのか?というような検証及び学習が主な作業内容でした。
そのプロジェクトには満期で2年お世話になり、ちょうどその頃ですね、リーマンショックの波が押し寄せてきました。
しかし、そのあとすぐにシステムエンジニアをやめたわけではなく、ほかのプロジェクトで8か月ほど勤めたのですが、その勤め先で不正を体験してしまい。辞めることを決意しました。その不正についても今後のブログで記載できたらと思います。
記憶が正しければ、2009年の12月ですね、私は25万(航空チケットとは別に)をもって、オーストラリアに旅たちました。
ちなみに、プロフィールの写真は、オーストラリアにいた時のものです。
一番鍛えていた時期でもあるので、貼りますw
所説ありますが、私はとあるバナナ農場で働くことになりました。
ここの最高時給はなんと25ドル、これは、システムエンジニアの時よりも高時給でした。
しかし、それにはいくつか理由があります。
1.めちゃめちゃ重労働
2.バナナバンチを担いで不自由な状態でバナナバンチからゴキブリがこんにちわ
3.タイフーンによってライバル農場が壊滅
と、特に3つ目の理由で、通常18ドルの時給が25ドルまで跳ね上がりました。
そのおかげで、といいますが、18ドルでも十分ですが、中古車を買ったり、ワニを食べたり、毎晩パブで踊りながらビール飲んだりと贅沢な生活を送れたり、質素に暮らせば十分なお金を貯められたりできる環境でありました。
過ぎた日々というのはこうして美しく語られるものなんですね…
恐らく、これは思い出が美化されているだけで、実際は日本に帰りたいと思ったことも、今すぐこんな仕事やめてやると思ったこともあったでしょう。
そんな頃でした。2011年3月11日のことです。
私は、当時住んでいた、キャラバンパークの野外キッチンで、たむろしながらブラウン管テレビを観ていました。
すると、突如、大きな津波が日本列島を飲み込むような映像が流れてきたのです。
そのニュースはそんなに長くはやりませんでした。
私は、両親に国際電話をし、安否を確認しました。
両親は、地震はすごかった。瓦とかが落ちてきたが大丈夫だと答えました。
次の日、農場のスーパーバイザーの人から、日本は大丈夫か?と言われました。
私は、両親の言葉からたぶん大丈夫です。みたいな言葉を返したのですが、
スーパーバイザーは「大丈夫じゃないぞ!」と返してきました。
私は、2,3年ほど英語圏にいた経緯がありますが、生活レベルの英語がある程度わかるだけで、ビジネス英語や専門用語に対しては無知でした。
それから、私は日本の現状について調べる時間が増えるようになり、2chやmixi、FBをはじめ、専門家による記事などをよく読むようになりました。
一つ言えることは、オーストラリアにはウラン鉱山があるが、核開発の禁止、原子力の入国禁止と謳っているわけであり、実際にオーストラリアのウランは福島原発で使われいた経緯もあり、決して無関係な国じゃないということが、調べるうちに見えてきました。
当時の私は、日本人でありながら311をはたから見る状態になったことに対して、罪悪感に追われていました。難しい問題を多く含むため、また別のブログで書かせてください。
現在はどうかわかりませんが、当時のオーストラリアのワーホリには、一雇用主の元に半年以上働くことができないという制限があるため、その農場には1年目のワーホリで半年、2年目のワーホリで半年と、計1年間働かせていただき、多くの思い出から最終日には涙をこぼしながらバナナバンチを運んでたという記憶が今でも思い出せます。
それからの私は、しばらく間自然主義といいますか、自然の偉大さから、第一次産業の大切さを身にしみて感じしばらくの間、農業と林業に従事しました。
ブレイクダンスをすることに対して、現役的にピーク(アドレナリンの分泌量的に)だったのは23歳と感じていますが、肉体的に障害を来すと感じたのは36歳ころでしょうか、その頃から、身体を休めるよういなり現在に至っております。
おおよそ、このような経緯を経て現在の私があるわけでありますが、キーボードはやっぱ109式が一番しっくりきますね。現在しようしているノートはENTERキーの小ささと、カーソルキーの配置に違和感を覚え、ミスタイピングばかりしてしまいます。
両方になれるってたぶん無理よね…