ウエストコーストとイーストコースト
今は、中国とかベトナムとかミャンマーとかタイとか色んな国で溢れている。
ほんのり覚えている。
小学校高学年か中学校低学年の頃の記憶。
確か、Tシャツの首元のタグにはMade in USAの文字が殆どであった。
高校を2年で自主退学し、18歳から19歳になる年に上京して、ブレイクダンスを始めて3年ほど過ぎた頃、時は2003年となる。
早稲田のキャンパスでブレイクダンスの練習ができるからか、
深夜の時給が高いカラオケ屋があったからか忘れたが、僕は早稲田大学から徒歩数分ほどの場所にあるカラオケ屋で深夜のバイトをしながらブレイクダンスの練習に励んでいた。
住んでいる場所は中野区中野の環七沿い寄りで、バイト先へは、16インチくらいの洒落乙な自転車で早稲田通りを約30分程漕いだ。
当時ストリートダンスの練習が盛んだった場所は、中野ゼロの中央にあるガラス張りの通路と安田(旧:安田火災ビル、現:損保ジャパンビル)とあった。
中野に引っ越した理由は、当時唯一日本に一つだけあったブレイクダンス専門店が中野にあったこと。そしてそこの店員さんから中野ゼロの場所を教えてもらい、初めの一年半ほどはその中野ゼロで練習していた。
それから、いろいろとあり、日本全国からストリートダンサーが集まるメッカ的な場所の安田で練習することになる。
安田のいいところは、なんといっても床が大理石で大汗をかかない限り地面に手をついて強く重心をのっけたとしても滑ることがないのに対し、局所的に手をついて片手逆立ちの状態で回る技の様なときには摩擦が少ないという当時のBBOYにとって最強の環境があった。それが、実際のクラブや大会などで悪い影響を受けることにもなるのだが...
そんな話はおいておいて、その頃の私が、毎日のように大理石の地面に頭をぶつけてきたせいか、何かを思い返そうとしても断片的にしか思い出せないため、まずは断片化された記憶を成り行きに任せて書いていこうと思う。
BBOY歴(足立区の時期も含めて)1年半前後の自分が、初めて安田に行ったときは、それはもう衝撃的だった。
10人くらいで半径3mほどのサークルを作り、順々に自分の技を磨いている。
そのサークルは、ビルの北面と南面とで一つづつ、計二つあった。
甲州街道にコンビニがあり、そこでエナジードリンクや飲料に飯を買い安田に入るのは北面からになるのだが、そこでメッシュキャップを被った見た目かわいい感じのB-girlがトップロックを踏み2000という技をやっていた。
自分は思った。現時点で負けている。差別的意味で書きたいわけではないが、女になんか負けるかと素直にそう思ったのを今でも覚えている。
それを見なかったことのようにした私は、その場所を素通りし南面のサークルがある場所を練習場所として選んだ。
この流れは長くなりそうなので一部割愛する、後日まとめようと思う。
練習を重ねるたび、そこで集まるBBOY達との仲は深まっていった。
一緒に2on2バトルにでたり、もう少し時が経つとCrew(チームやギルドみたいなもの)を組んでバトルに出たりShowをしたりするようになる。
そんな頃だったか、仲間の都合もあったりしてマイナーだけど練習できる場所で練習することも増えるようになる。
主に駅がおおかっただろうか
そんななか、たまさんというBBOYのつながりでちゃいという男と出会うことになる。
そして彼は、次第に私と一緒に練習する中で私のことを強く慕ってくれるようになる。そんなある日、彼が、お前をW氏に紹介したいと言って来るのだった。
当時、彼は早稲田大学に通っており、早稲田のBBOYサークルに誘ってくれるようになった。
今でもどちらが先か思い出せない。それがきっかけで早稲田駅近くのカラオケ屋でバイトするようになったのか、そうではなく、たまたまだったのか。
いずれにせよ、そのサークルにお邪魔するようになってから、手足が不自由なアメリカのBBOYと知り合うことになる。
彼の名はハーリーといった。
サークルで練習する度に、一生懸命に踊る彼の姿に心打たれ、次第に僕たちはメールを交換する仲になった。
しかし、そんな日々もあっという間で、出会ってから数か月という時が立ち。彼の交換留学の終わりの日が迫っていく。
彼の帰国間際のある日、僕たちはプライベートで会うことになった。
片言英語の私は、片手に和英辞書とよく使う簡単な英会話的な本を持ち彼と西新宿だったか早稲田近辺だったか忘れたが、とあるマクドナルドで一緒にマックした。
やはり、断片的にしか思い出せない。
ハーリーがアメリカに帰った後、たまのメールでやりとりしながらも時は過ぎていった。
次第に練習仲間も変わりながら、大御所の先輩S氏と一緒にCrewを組んでもらえるようになって直ぐのこと、S氏がアメリカの学校に行くという話から、そのCrewはもはや幻と化した。
それから同じCrewでもあった、中野ゼロの頃から仲がよかったT氏と一緒に練習に明け暮れながら、来年にでもアメリカに行こうか?という話が徐々に進んでいく。
そして次の年の夏、約2か月ほど、S氏が住んでるハリウッドの一角にあるアパートにT氏と一緒に住み着くことになる。
全てがでかく見えたアメリカ。
毎日晴天で気候は乾燥しており、朝は肌寒く、昼はすがすがしく(ぶっちゃけ暑かったような)、夜はまた寒い。そんな中楽しい毎日があった。
朝起きたらハリウッド近辺を観光したり、サンタモニカやベニスビーチにいったり、S氏とは別に一緒のCrewであったK氏が住んでるUCLA近くの寮に遊びに行ったり、日本ではVHS越しに見ていたはずの本場BBOYが集うロングビーチ方面のアナハイム地区にある練習場所で練習したり、と毎日が刺激的だった。
思い出せるのは、チャイニーズかコリアン料理が美味しくて(当時のアメリカの一般食は基本不味かった)、逆にハンバーガー屋のジャンクフードでも慣れてくると美味しく感じてしまう日本のマック的なノリもあった。
約2か月も先輩の家にお世話になっているといろいろと問題も発生してくるわけで、僕らは、2か月でS氏が借りていたアパートをでることになった。
先天的な問題か、一緒にLAX行きの飛行機に乗ったT氏とも何か話し合ったわけでもなく、それから別行動をとるようになる。
そして、僕が選んだ道はイーストコーストWashington DCに住んでいるハーリーに会いに行くことだった。
私は、最初にDCまでバスで内陸を横断しようと考えたが周りの友人から危ないと強く止められ、結局飛行機でボルティモア空港まで行きそこから列車でDCのユニオンステーションまで行くことにした。
西は西ででかくておおらかな自由度がある感覚を覚えたが、東は東でまた違う味があったように思える。
まとまりがないが、今日はここらへんで締めようと思う。
今日は久しぶりにBreak Beatsを聞きながら、少し何かを思い返せたか、
ダンスは最高だな。
また生まれ変わったとしたら、また踊りたいと思う。