ろぼぶろぐ

自己中、精神障害持ち(たぶんみんな)

久しぶりのブログ

こんにちわ

 

ロボと申すものです。

 

ブログを書くことはもう何年振りか

 

作業用メインPCの合間にノートで作業しようとしたのですが、キーボードのキー配列の違いに戸惑いながら、まずはタイピングしながらノートに慣れようと思うところ

 

そして、過去の自分を掘り起こす作業とともに当ブログをしていこうと思う所存でございます。

 

ここから、簡単に自己紹介がてら生い立ちを追っていきます。

 

プロフィール写真は、体力的にピークだったと思う28歳当時の思い出です。

現在は、筋力も落ち平凡に暮らしております。

 

 生まれは、どちらかといえば田舎で、18までどちらかといえば田舎で育ちました。

そして、19になる年に上京し、ブレイクダンスというものにのめり込むことになります。

 

高校を2年で中退した自分にとって、当時の自分には焦りがありました。

理由は、周りの友達が卒業証書取得、専門や大学への進学と成功へと道を進めているという事柄にありました。

 

それもあってか、私はそれから10年ほどダンスに夢中になることになります。

今思い返しても、HIPHOPやBBOYといった文化にはとてもお世話になり、38歳になった現在でもまたやりたくなる衝動にかられるものです。

 

ブレイクダンスについてのブログはまた今度書くとして、そしたら私は何を書けばいいの?となるわけで、・・・

 

どうしましょう。

 

ある程度の衝動が起こるまでは歴史に残るであろう経緯を書いていこうと思います。

 

ブレイクダンスを始めた19の年ですね、2001年9月11日に同時多発テロが発生しました。かすかですが今でも思い出せるのは、ニュースがまるでハリウッド映画のようだった。ということです。

 

YOUTUBEの動画の題材にもとりあげられることがありますが、あれは陰謀だったのではないか?等々あると思いますが、ここではスルーすることにします。

 

それから、バイトしながらブレイクダンスに明け暮れる日々が3年ほど続きます。

アメリカに本場のBBOYの勉強をしにいったり、渋谷、原宿、六本木辺りのクラブで開催されるBBOYバトルにでたり、月9ドラマにダンスエキストラとして出演したりと多少なり活躍していた時期もありました。

 

今では痕跡すらないと思いますが、ブログを始めたのもそのころで、約6年ほど毎日書いていたと思います。自己主張の強い性格ですから、内容なんて覚えてもおりませんし、大したことも書いてはなかったでしょうが、できるならもう一度読んでみたいものですね。

そして、いつか正確には思い出せませんが、一度結婚することになります。

恐らく24歳から26歳のころでしょうか。

 

相手がダンスの練習で知り合った女性で、お互いダンスをしている時はそれなりにうまくいっていたのですが、結婚してお互いがそれぞれの職に向かい始めたころから、すこしづつズレはじめ、私は離婚という道へ歩みを進めてしまいます。

 

2008年10月頃、サブプライムローン問題の影響が日本でも出てき始めたころだったと思います。

結婚をするにあたって、私が選んだ職はシステムエンジニアという道でした。

しかし、リーマンショックの影響もあり、当時の新聞の見出しにはこのようなことが書かれました。

 

システムエンジニアの需要半減」

 

その見出しを見た私は、システムエンジニアを続けることを諦め、オーストラリアへワーホリに行くことになります。

 

その前に、高校中退だった私がなぜシステムエンジニアになれたのか?という点について少し話させてください。

 

2006年当時は、システムエンジニアの需要が非常に高かったため、数多くのベンチャー企業システムエンジニア育成に力を入れていました。

 

当時の私はバイク便を事業主という形で請負ながら、ブレイクダンスし、新婚生活的なのりで生活をしていました。

 

そんな中、バイク便では収入の天井も見えていましたから、稼ぎ頭になるべく、某システムエンジニア養成所に通うことにしたのです。

それは、バイク便をしながら約3か月続きましたが、そこでC言語や簡単なSQLの勉強を経て、経歴を1年という期間に詐称し、いきなり大手企業のプロジェクトに請負で参入されるわけです。

 

しかしながら、当初入ったプロジェクトの使用言語がかなり特殊な統計型言語であったため、ほとんどのシステムエンジニア(エリートも含む)と同じスタートラインでその言語を習得し始めることになり、はじめのうちは、その言語で何を実現できるのか?というような検証及び学習が主な作業内容でした。

 

そのプロジェクトには満期で2年お世話になり、ちょうどその頃ですね、リーマンショックの波が押し寄せてきました。

 

しかし、そのあとすぐにシステムエンジニアをやめたわけではなく、ほかのプロジェクトで8か月ほど勤めたのですが、その勤め先で不正を体験してしまい。辞めることを決意しました。その不正についても今後のブログで記載できたらと思います。

 

記憶が正しければ、2009年の12月ですね、私は25万(航空チケットとは別に)をもって、オーストラリアに旅たちました。

 

ちなみに、プロフィールの写真は、オーストラリアにいた時のものです。

一番鍛えていた時期でもあるので、貼りますw

lobobanana

Lobo in a Banana farm

所説ありますが、私はとあるバナナ農場で働くことになりました。

ここの最高時給はなんと25ドル、これは、システムエンジニアの時よりも高時給でした。

しかし、それにはいくつか理由があります。

 

1.めちゃめちゃ重労働

2.バナナバンチを担いで不自由な状態でバナナバンチからゴキブリがこんにちわ

3.タイフーンによってライバル農場が壊滅

 

と、特に3つ目の理由で、通常18ドルの時給が25ドルまで跳ね上がりました。

 

そのおかげで、といいますが、18ドルでも十分ですが、中古車を買ったり、ワニを食べたり、毎晩パブで踊りながらビール飲んだりと贅沢な生活を送れたり、質素に暮らせば十分なお金を貯められたりできる環境でありました。

 

過ぎた日々というのはこうして美しく語られるものなんですね…

 

恐らく、これは思い出が美化されているだけで、実際は日本に帰りたいと思ったことも、今すぐこんな仕事やめてやると思ったこともあったでしょう。

 

そんな頃でした。2011年3月11日のことです。

 

私は、当時住んでいた、キャラバンパークの野外キッチンで、たむろしながらブラウン管テレビを観ていました。

 

すると、突如、大きな津波が日本列島を飲み込むような映像が流れてきたのです。

そのニュースはそんなに長くはやりませんでした。

 

私は、両親に国際電話をし、安否を確認しました。

両親は、地震はすごかった。瓦とかが落ちてきたが大丈夫だと答えました。

 

次の日、農場のスーパーバイザーの人から、日本は大丈夫か?と言われました。

私は、両親の言葉からたぶん大丈夫です。みたいな言葉を返したのですが、

スーパーバイザーは「大丈夫じゃないぞ!」と返してきました。

 

私は、2,3年ほど英語圏にいた経緯がありますが、生活レベルの英語がある程度わかるだけで、ビジネス英語や専門用語に対しては無知でした。

 

それから、私は日本の現状について調べる時間が増えるようになり、2chmixi、FBをはじめ、専門家による記事などをよく読むようになりました。

一つ言えることは、オーストラリアにはウラン鉱山があるが、核開発の禁止、原子力の入国禁止と謳っているわけであり、実際にオーストラリアのウランは福島原発で使われいた経緯もあり、決して無関係な国じゃないということが、調べるうちに見えてきました。

 

当時の私は、日本人でありながら311をはたから見る状態になったことに対して、罪悪感に追われていました。難しい問題を多く含むため、また別のブログで書かせてください。

 

現在はどうかわかりませんが、当時のオーストラリアのワーホリには、一雇用主の元に半年以上働くことができないという制限があるため、その農場には1年目のワーホリで半年、2年目のワーホリで半年と、計1年間働かせていただき、多くの思い出から最終日には涙をこぼしながらバナナバンチを運んでたという記憶が今でも思い出せます。

 

それからの私は、しばらく間自然主義といいますか、自然の偉大さから、第一次産業の大切さを身にしみて感じしばらくの間、農業と林業に従事しました。

 

ブレイクダンスをすることに対して、現役的にピーク(アドレナリンの分泌量的に)だったのは23歳と感じていますが、肉体的に障害を来すと感じたのは36歳ころでしょうか、その頃から、身体を休めるよういなり現在に至っております。

 

おおよそ、このような経緯を経て現在の私があるわけでありますが、キーボードはやっぱ109式が一番しっくりきますね。現在しようしているノートはENTERキーの小ささと、カーソルキーの配置に違和感を覚え、ミスタイピングばかりしてしまいます。

両方になれるってたぶん無理よね…